2015年10月27日火曜日

OJT(同行訪問)で見えたこと

久しぶりのOJT、訪問看護の現場をみることができた。

フィジカルアセスメントを行い、計画されたケアをマニュアル化された方法で行っている印象を受けた。
急変ではないが緊急コールが多い30分訪問の利用者にマニュアル化された看護だけでよいのか?老衰の利用者、減少していく食事量に不安を抱える介護者を看取りに導くとき、マニュアルにある一律な看護の繰り返しでよいのか?状態変化が著しいガン末期の利用者も他の利用者と同様のマニュアル化されたケアでよいのか?それぞれの事例から、「緊急コールは不安から発していることなのだ」「こんな少ない食事量で足りているのか?」「急変した時どのようにしたらよいのか?」など利用者や介護者の叫びがきこ得てくるような気がした。本当に今必要な看護がなされているのならこんな不安な状況はなくなるはずではないのだろうか?

ナイチンゲールは看護覚え書のなかで、自らが感じたことのない他人の感情の中に身を投じる能力が、これほどまでに要求される仕事はないと記している。
ヘンダーソンもまた看護の基本となるもので、看護師は、自分の患者が何を欲しているのかのみならず、生命を維持し、健康を取り戻すために何を必要としているかを知るために、彼の*皮膚の内側*に入り込まなければならない。このように表現をしている。

なぜ緊急コールが多いのか?食事量が少ないと心配するのはどのような気持ちからなのか?死に向き合おうとしている介護者の言い知れぬ不安はどのようなことなのか?これらの状況にじっくり向き合い「なぜですか?」と聞き取り集めた情報をもとにアセスメントし実施した看護はよりたしかなものとなっていくのである。



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